ああ、もう一つあった。
君は
>>359において
>私の希求する法とは、人の本来もつ良心に矛盾せず、状況や功利に左右されない物だ。
と、述べた。
法とは、社会・或いは共同体を構成する人間によってそれを維持・向上するために創造されたものだ。
一方良心とは、満ち足りた状態だと意識している個人が他者に対して持つ"寛容"を示す心理だ。
簡単に言えば、優れた人間(豊かな人間)が劣等な人間(貧しき人間)に対して持つ優越意識と思ってもらっても良いだろう。
厳密な意味において良心は、他人と"優劣"が存在する事を前提としている。
そこには平等も対等も無い。
(アフリカ難民に募金するのも、良心の表れだ。もし私が飢えと経済的困窮に貧していれば、募金はしないだろう。)
故に"良心"は個人の意識としての存在であり、現代社会においては"良心"は普遍とはなり得ない。
現代社会とは、そこに属する人間が平等であり、等しい権利と義務を擁している事で成り立っているからだ。
だからといって良心は、悪い状態を示しているわけではない。
良心を示す事ができる人間は、自らの欲求(生存、帰属、安全、愛情等々)を満たしているヒトだ。
精神的に極めて健全であり、その人物を取り巻く状況も極めて"良好"なのだろう。
さて、ここで問題だ。
戦場の兵士は"良心"とやらを"法"すれば、従うのだろうか?
銃弾の飛び交う中、満ち足りた気分になるのだろうか。
戦友が吹き飛ばされた光景を見ると"良心"を表すのだろうか。
そもそも、良心とは"法"と成り得るのか。
そして"戦時において法は存在しない"状況で、"法"に過ぎない"良心"とやらは存在するのか。
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